こんにちは。入政建築4代目の新野恵一です。
これから、少しずつブログの更新をはじめます。
普段ブログは、広報の鈴木に任せっぱなしでしたが、改心しました!!
ある工務店社長のブログに、「プライベートにづかづか踏み込む仕事だから、自分をまずさらけだすことが大事」だということが書いてあって、、、
「その通りだなぁ」とつくづく思いました。
自分をさらけだすこと。
普段思っていること。
設計のこと。
素材のこと。
社内で話すような内容も、惜しみなく発信していきます~
よろしくお願いします!
最初は、なぜ継ごうと決心したのか。
「家業だから、戻ってきました!」
って簡単な感じでないので、このあたりを、丁寧に?ご説明したいと思います。(家業を継いでいる人は、みんなそれぞれアツい想いがあるんですよね。)
「継ぐなんて一切考えていなかった幼少期」
–歴史-
1代目の國五郎(くにごろう)が、大工を業としてはじめたのが、大正13年あたりだと推測されています。
当然、周りの家は、ほとんど「うち」が建っていました。裏山から木を伐りだして、家(加工場)で加工して、人力で建つ。
嘘みたいな話ですが、マジな話です。
弟子も10人弱くらいかかえ、やっていたのです。しかも、家に寝泊まりしながら。。。
今でも、河合さん(大工)は、現役で働いています。。河合さんは、15歳から下宿生活。
週に1回の休みも、親方との暮らし。考えられますか!?
嫌でにげだしたくなりますよね。。
そのおかげで、弟子が7人くらい独立をはたしています。今もこの方法でやったら、相当鍛えられそうだな。
いや、親方も嫌がるよね。
大久保町(地元)の屋台をつくる話も楽しいです。
「屋台をつくる」っていっても、人がいません。大久保町の若者が家に集まり、みんなでつくったそう。
賄いをつくって、手伝いの若者に提供していた模様。
今では考えられないことの連続。
2代目の政治(まさじ)になり、屋号をつけました。
政治(まさじ)に仕事が入る→入政と命名!
入政建築として新たにスタートを切りました。それまでどんな名前でやっていたか知りません。誰か教えてほしい。。。
3代目、達治も大工の修行をしてから、浜松の工務店(マルモ中村住宅)に入社。現場監督として働きます。
*無断掲載 笑 おそらく、三代目が20前後の証明写真。わかすぎる!
そこの会社で、母と出会い結婚になるのでした。
そして、家に戻り、会社を設立します。「有限会社入政建築」のはじまり。
2代目でできた、負債を抱えながらのスタート。不安いっぱいのスタート。
この時、僕は、3~4歳。
そんな背景があるので、近所に出かけると、大工さまの孫?といわれていました。
僕が幼いころは、2代目はまだ現役。作業小屋(今の事務所がある場所)に遊びに出かけていた記憶がかすかにあります。
その頃の大工さんのイメージは、あまりよくなく。。
木くずで、埃まみれだし。口は悪いし。人使いは荒いし。(孫たちには優しい。)
大工にはなりたくない。
漠然とそんなことは思っていたのでした。
次回に続く。